私の頭の中のボールペン

仕事では、2本のボールペンを常に用意している。

1つは運転席側のドアポケットに入っている。

もう一つはズボンの右のポケットに忍ばせている。

 

 

 私は車の中でよく書き物をする。仕事のメモを取ったり所感を書いたりする。わざわざ車を止めて安全な場所に停車したのちにまとめて書いたりするし、急に電話がかかってきて殴り書きする時もあるため、常にボールペンが近くにないといやなのだ。それに、ポケットからもぞもぞとボールペンを取り出したくない。単純になかなか出てこないのでイライラもするし、車の中でもぞもぞしていると近隣の人に「おしっこ我慢しているのかな」と思われてしまうかもしれない。

 

 すぐ近くに「座ってからも手に取れる位置にボールペンを置いておきたい」という思いのもと、運転席側のドアポケットに1本、ボールペンを置くようにしている。

 

 ズボンの右ポケットに入ってるボールペンは言わずもがな車の外で使用する。訪問先でメモを取らないとすぐに忘れてしまうし、社会人になってからずっとメモを取る癖だけは染みついている(たまに書いたことを忘れてしまう)。ドラマで見る記者ばりにここぞとばかりにメモを取る。本当はハンチング帽をかぶりたいぐらいだ。ボールペンがないと仕事ができない。だから私は必ず2本のボールペンを用意している。

 

 

 しかし、めちゃめちゃあほなんだが、私の脳みそがこの「ボールペンは常に2本ある」ということをなかなか覚えてくれない。なにか作業をしていたり没頭していると「ボールペンは1本しかない」という固定観念が働いてしまうのだ。いつもどちらかのボールペンの存在を忘れてしまう。

 

 

【パターン1】

 車内でドアポケットのボールペンを使用した後、右ポケットのボールペンの存在を忘れ、そのそのボールペンを外に持ち出す。そして右ポケットに収納する。

 

 これは場面的に最も多い。いつの間にか右ポケットにボールペンが2本入っており、車の中でいざボールペンを使用したいときにすぐ取り出せなくて爆発する。

 

 

【パターン2】

 外で仕事をしてきた後に、ボールペンを右ポケットにしまわずに車に乗り込む。座った後に右ポケットにしまうのは困難なため、ドアポケットに収め、2本在中させる。

 

 この場合、上記の行動をした後、右ポケットにボールペンが入っていると思い込んで外に出る。そして出先でメモを取りたくなった時にボールペンがないことに気づいて爆発する。

 

 

【パターン3】

 初めからドアポケットのボールペンの存在を忘れ、車中でもぞもぞしてポケットからボールペンを取り出し、車内で仕事のメモを取る。

 

 その後、ボールペンをポケットに戻そうとするともぞもぞしてしまうため、一時的にドアポケットに置き、2本在中させ、そのまま忘れて外でボールペンがないことに気づいて爆発する。

 

 

【パターン4】

 初めから右ポケットのボールペンの存在を忘れ、外に出るときにドアポケットのボールペンを持ち出して外で使用する。

 

その後、右ポケットに収納し、2本在中状態となり、爆発する。

 

 

【パターン5】

 股に挟む。

 

上記のパターンに含まれない。車内でドアポケットにボールペンがある状態で右ポケットのボールペンを手に持っていた場合、一時的に股に挟み込みながら「あとでポケットに入れよう」と試みている状態。

 股に挟み込んでいることを忘れて車から降りる。その時、一緒にボールペンも落ちる。落ちた衝撃でスプリング部分が壊れ、ノックがうまく機能しなくなって爆発する。

 

 

 

 爆発しているのは私の感情である。一番ダメージがでかいのは出先でボールペンがない時。車まで戻れる距離にいればよいが、遠くまで来てしまっている場合はもう絶望だ。大爆発だ。訪問先で借りる羽目になる。ボールペンを借りる仕事をしているといっても過言じゃない。ボールペンを借りてるおじさんは、絶対に仕事ができない。明日も明後日も、私はボールペンのありかを見失い続ける。私の人生そのものだ。

 

 

 ちなみにボールペンを3本に増やしてみた時もある。

その時は見事に3本ポケットに収納されていたのですぐやめた。ああ。

 

2025年3月10日

 

犬小屋ぐらいの狭さのそれ

 「煮え切らない蟹」の現在の合計アクセス数は「395」だそうです。
たくさんの人に足を運んでいただいてうれしい限りです。これからもっと足を運んでくれる人が増えるといいなと思っています。冷静と情熱のあいだのちょっと窪んだ穴みたいなブログへようこそ。


 このブログを開設したときは、脳内に「とにかくブログを書け」「お前は書く人間だ」「なんのためのブラインドタッチだよ」という叫びが頭の中を飛び交っており、書かねばならぬとその使命感に鼻息を荒くしていました。実際にハイな状態で脳内の自分に突き動かされるように文章を打ち込んでいましたが、やがてその鼻息は吐息に変わり「情熱が失われてできない!俺はもうできない諦めた、もう無理、諦めた」ぐらいの気持ちになってしまい、最近の私の脳内には今日の夜飲むビールのことしか頭にありませんでした。私はこういう人間です。

 

 そんな最近の私は、「自分の仕事上のミスを記録する」ことをしていました。別にブログで書くことではないのかもしれませんが、今の自分の頭を整理するためにも書かせてください。

 

 以前Xでもつぶやいたことがあるのですが、私は毎日ミスする人間で、最低1日1回はなんらかのやらかしをしてしまいます。ひどいときにはミスをしたフォローをしてる時に別のミスをしていたりします。周りの人間も私がミスをすることに慣れてしまっていて、9年もお世話になっている仕事なので最近では誰も何も言ってこなくなりました。「ミスをして怒られるおじさん」ほどみじめなものはないと思いますが、「もう諦められてるおじさん」になってしまうというのもなかなか辛いものがあります。このブログのアドレスも「金子蟹」をローマ字表記にしたかったのですが、「kanemokani」になっており単純な打ち間違いのミスしており、でしょ?といった感じです。

 

 

 ワーキングメモリーのスペースはおそらく犬小屋ぐらいの狭さしかなく、ニワトリのように3歩進めばさっきまでの思考が抜け落ち、ロバのように潤んだ目になったかと思いきや猫のようにキレ散らかす(決して周りや物には当たりませんが)ブレーメンの音楽隊もびっくりの様子なのです。

 

 ミスが多いとどうなるかというと、反省も素直に出来なくなってきてしまうのです。直しようもないのでミスをしてももはや「まことにすいまめん」ぐらいの気持ちにしかなりません。これ以上のものもないし、これ以下でもない。謝ってはいるのです。

 なんとかしたい気持ちはかろうじて持ってはいます。今年の抱負を考えていくのと並行して考えたのが「ミスした内容を記録して、対策を考える」というシンプルなものでした。

 

 ミスした日付、内容、対策案を並べる。どんなミスが多いのかが俯瞰で見られると思い始めてみました。予想通り、ものすごい量のミスの行が増えていくスマホのメモ帳。2月に入り、なおも増えていくミスに途中からなんか面白くなってしまい、ミスした瞬間に自分のコレクションが増えていくような感覚になり、あげくのはてに「早く次のミスを記録したい」という気持ちになっていきました。スマホ画面いっぱいのミスはもはや圧巻です。上司にはいつも「じゃあどうすればいいの?開き直らずに俺はこういうミスをした。お前にどう伝えればいいの?」というような被害者ぶった顔をすることにしています。

 

 やがてミスの対策を考える、は「気をつける」だけとなり3月に突入しています。ミスが増えど、仕事はずっとそこにあり続けます。ミスをしたら自分で取り返すのみなので、半べそをかきながら謝罪の電話をしたり来た道を引き返したりするのです。その距離で多分日本列島を一周する距離は今の仕事に就いてからの9年で余裕で走っていると思います。

 そして今のところメモは全く生かされていませんが、1年やり通したら図鑑にしてみたいなと考えています。そしてブログを再開させるにあたり一番のミスしていることは、この記事内にビッグダディの名言を入れ込もうとして3日ぐらい長考して睡眠不足になってることです。こういう衝動的な性格も対策が必要なのかもしれません。

 

2025年3月5日

喧嘩できない夫婦

 出会って約12年、嫁と喧嘩を一度もしたことがない。声を荒げたり、合わない意見を無理矢理すり合わせることもしない。子供を授かってからも、どっちが何をする系のことで言い争いすらしていない。言うぐらいならさっさと行動してしまう方がよっぽど生産性がいいと考えている。互いが互いに強制したりせずに今日までやってきた。

 けれどこれが自分の信じている夫婦関係のあり方だ、とは声を大にしては言えない。なぜなら正直に言うと、私自身はただ単純に喧嘩することを恐れているだけだからだ。できれば喧嘩をしたくない。大きな声を出さないでほしい。がっかりしないでほしい。落ち込まないでほしい、とにかく平和的にいこうぜ。と、喧嘩からくる気分の落ち込みをなくすために必死になっている。一言でいうと「回避」。これが喧嘩をしたことがない、の真実だ。おそらく、嫁もそういった類の人間だと思っている。12年間果てしない「回避」合戦を繰り返し、積み上げてきた山のてっぺんで2人でバランスをとっている。その山は登ろうと思って登ってきたのではなく、いつの間にかそこに登っていたという感覚だ。喧嘩するほど仲が良いというが、我々はただの「喧嘩できない夫婦」だ。

 

 「喧嘩」によって生まれるものとはなんだろうか。こぶしを交わしたヤンキー同士に芽生える男の友情のような、理論的によくわからない感情が動くのだろうか。たしかに私も嫁もヤンキーでもなくて、こぶしを交わして互いの力を認め合ったりした経験は皆無だ。そもそも人を殴ったことすらない。こぶしで語り合う喧嘩で生まれる友情は理解ができそうもないので、端っこに寄せておいて「口喧嘩」について考えたい。

 

 自分の譲れない部分を主張して相手にきちんと理解してもらう。それに伴って起こる摩擦が口喧嘩だ。他人同士で生活をする以上、合わない部分が出てくるのは当然だ。たとえば「トイレの便座は普段から閉じたいタイプ」であったり、「洗濯機の蓋は開けておきたいタイプ」とか「ドアをちょっとだけ開けておかないと不安になるタイプ」だったり、人に合わせるのか自分が我慢するのかの選択を迫られる時があるだろう(たとえがなぜか開けるか閉めるかだけになった)。どちらかの理解度が低すぎてもいけない。要求がムズ過ぎてもいけない。無理矢理説得してもいけない。「俺はこういう人間だ!」とビッグダディのように伝えるのもいけない。口喧嘩の種はそこら中に埋まっていて、ちょっとしたことで顔を出す。私たち夫婦は、その埋まっている種を、相手に合わせまくることで回避してきた。

 

 夫婦はよく国交に例えられる。文化も価値観も違う国同士が、対等な力関係を築き上げるのはとてつもない労力が必要となる。交渉能力だったり、相手を尊重しながら自分たちの要求を通したりするのは緻密な計算と骨の折れる苦労がつきものだ。やり方を間違えると、もうそれは国交断絶、戦争になりかねなくなってしまう。それほど、夫婦における言い争いとは、デリケートな問題だと認識している。だからこそ、互いの腹を刺しかねない鋭利な言葉を日常会話で使うことはないし、相手の気持ちを先に考える。これほど他国の利益を優先している国は珍しいのかもしれない。

 

 女性は不満をためやすいと聞く。いつかそのたまった感情が爆発するよ、と他人に脅しのように言われる。そう聞くと自分のやってきた行動が信じられなくなってしまうし、時限爆弾が隣に置いてあるような状態を想像してしまう。そんなのは嫌だ。しかし、どうやら喧嘩慣れをしていない夫婦がいきなりド級の喧嘩をし、そのまま勢いで離婚してしまうパターンが多いらしい。喧嘩もなれていないのだから、仲直りの手段なんて持ってないのだろう。だからその解決方法は毒を解毒して免疫をつけるように、ほどほどの喧嘩をして、その都度仲直りをきちんとする。というのが良いらしい。

 喧嘩をこれだけしていない我々夫婦の離婚の危機があるのだとしたら、そういった爆発する系であることが想像できてしまう。どうにかして、その爆発も「回避」する為に、ちょっとずつでも小言でも言っていった方がいいのかもしれない。とりあえず参考としてビッグダディの名言集読んでから寝ます。

 

2024年6月6日

 

 

そうでない方のおじさん

甥っ子から貰った2×2×2のルービックキューブ

おさがりのルービックキューブ

小学生がもう簡単に出来てしまっていらなくなったルービックキューブ

 

 娘のおもちゃ箱に乱雑に転がっていたそれは、甥っ子に貰ってから一度も日の目を浴びたことはなかった。去年の年末に甥っ子がさまざまなルービックキューブを祖父母の家に持ってきていて、私の目の前で自慢げにころころと完成させていった。立方体ではない形や、パーツが独立しているタイプ、オーソドックスな3×3×3、4×4×4もあった。アンミカのルービックキューブを見たときは「特需~!」と思った。私もころころ適当に回してみるが、全然合わない。一番簡単そうな2×2×2は一面だけはかろうじて合わせることができるが、そのあとが全く続かない。6面は無理ではないか!?と思う。

 

 にこにこの甥っ子に「あげよっか」と言われて大人げなく「ほしい!」と無邪気に答え、家に持って帰ってきたはいいものの。難しくていつも10分もたたずに娘のおもちゃ箱に放り投げる。それをまた2歳娘がひっぱり出す。そして気が付くと、ルービックキューブはぬいぐるみが座る椅子と化していた。

 

 一昨日、唐突に完成させたくなった。「椅子と化してる姿が不憫に思えてきたから」というのは表向きの理由で、本当の理由は「甥っ子にダサいと思われたくない」からだ。次に会う時までにできるようになっていたい。インターネットで検索をする。手順通り段階を踏んでいく作業と、あらかじめ決められた回し方のパターンを暗記する。意外にそのパターンは少ない。これは動かし方を覚えてないと完成しない。逆に言うとパターンさえ覚えてしまえば誰でも完成させることができる。繰り返しころころ回していくと、そのうちお手本を見なくても完成させることができるようになった。嬉しくて何度も崩して何度も完成させる。完成させるたびに嫁に見せる。愛想笑いをされる。別にいい。これは甥っ子に見せるための努力だ。君には関係がないから。崩して、ころころ転がしてまた見せる。また、愛想笑いをされる。鼻で笑われながら私は「今までできなかったことができるようになって嬉しくなる」という気持ちを、しばらく忘れてしまっていたなと思った。

 

 おじさんには、急になるものではない。経験を重ねて徐々におじさんとなっていく。いつも新しい挑戦をしているおじさんとそうでないおじさん。あきらかに後者である私が、2×2×2のルービックキューブ(おそらくマクドナルドのハッピーセットのおまけ)を通じて、こんな快感を味わえる日がくるなんて思わなかった。今、アマゾンのカートには3×3×3のルービックキューブが待機している。やろうとしない限り一生できない。

 

2024年5月29日

完全観察について

 人間観察は私が言うまでもなく楽しい。なぜなら単純に「観察」という行為自体が見境なく面白いからだ。ある焦点にフォーカスを当てる。すると、今までなんとなくでしか把握していなかった部分がくっきりと浮き上がってくる。認識から漏れていたものが、急に鮮明になる驚き。それを人間に対して行うのだ。コミュニケーションを一切無視して、喋ることもせず、感情を表に出すわけでもなく、答え合わせすることもなくただ「観察」するだけ。この行為を密かに楽しんでいる不届き者は多い筈だ。

 

 たまにその人と目が合ってしまう場合はすぐに視線を外し、ものの5秒も立たぬうちに再び観察を始める。大概は再び観察することができるようになるが、中には数回、目線が合ってしまうこともある。そういう時は恥ずかしい感情や申し訳ない気持ちにあえて蓋をして、「目が合ってくれて嬉しい」「これも一期一会だ」という都合のいい顔をしてしれっとその場から去ればいい。今までそれで対象人物に絡まれたり、警察に通報されるようなことは一度もない。

完全犯罪ならぬ完全観察だ。

 

 完全観察はその対象者が自分を認識していない時間に行われる。老若男女、髪型、髪の色(その手入れの頻度も予測する)から始まり、眉毛の太さ、アクセサリーの有無(素材感や数)、服のサイズ感、服の色味やトータルバランス、カバンや帽子の有無や持ち方、イヤフォンなど身につけている持ち物とその形状。立ち止まっている時はその立ち姿、歩いている時は歩幅やスピード、姿勢。目線はどこを向いているか、見ている場合はどの何をくらいの時間凝視するのか。

 

 もちろん複数人の場合も同様である。上記を踏まえた上で、どんな集まりか、どういう関係なのか、距離感はどのくらいか、良好な関係かどうか、その集団から浮いている人はいないかなど。見る箇所をあげたらキリがない。最終的にはその人のバックグラウンドや生活感をできるところまで、時間が許す限り紐解こうと試みる。よく「人はそんなに自分のことを見ていない」というが違う、私という人間にめちゃめちゃ見られているのである。

 

 間観察に没頭してしまう理由がうすぼんやりとある。「人と比べてしまう性格」だ。これに関してはまた別の記事でも書こうと思っているが、おそらく、自分が基準からはみ出ていないか、バランスが取れているかを把握するためにしているのだと思う。他人と自分の間にある差に対して感情が動く。自分と向き合う恐ろしさから、他人をこの世界の基準に置いている。そして自分がその基準から逸脱してしまわないか心配で心配でたまらなくなる。だから観察がやめられない。このループの渦中にずっといる。実情はそんなところだろう。そこには無意識に差別も含まれてしまっているかもしれない。「外見だけで人を推し量ろう」という無粋な気持ちを隠しながら、人間観察面白っ!とか言ってるのである。

 

 最後に余談だけどこんな弊害もある。

 「あれ...あの人どっかで会ったことあるな...」の多発だ。見たことある人が街中で大発生するのだ。私は愛知県外に住んだことがなく、おじさんになるまでずっと愛知県をうろうろしているので、数十年に及んですごい数の愛知県民をこの目で見ている。その人を観察した記憶が本当に呼び起こされているのか、似た人のパーツを組み合わせた顔をモンタージュ写真のように浮かび上がらせているだけなのか、それとも、全く見たこともない初対面の人なのかは、ぜんっぜんわからない。過去に観察してきた人間の特徴データは、ずっと霞んで見えてるゴミデータだ。思い出すのに何の役にも立たない。本当に何の役にも立たな過ぎて面白い。まじでぜんっぜんわからない。不完全観察だ。

 

「あれ...あの人...?」を嫁に言い過ぎて「もうそれ絶対に見ていないよ」と即答されるので、もういちいち言わないことにしている。

 

 

2024年5月23日

「後ろ向きに検討します」

日曜日にタイヤの履き替えをした。

 自分ではできないので、お店でやってもらった。スタッドレスタイヤの寿命は3年か4年ぐらいです、と入店後さっそく新しいタイヤの購入を勧められる。5月なってからタイヤを履き替えに来る腰の重いやつに、タイヤ購入を即決できるほどの度胸はない。もしかしたらこんなズボラなやつだから、口車に乗せやすいかもと思ったのかもしれない。断るつもりで、ぎこちない笑顔をつくって「検討します」と言ってみる。しかし、それが聞こえたのか聞こえないふりをしているのか、片膝をついたお兄さんは手作りのパンフレットを持参して、聞いてもないスタッドレスタイヤの説明を始めた。そこからオススメのタイヤを長いこと話をされる羽目になった。「後ろ向きに検討します」と言えたらどんなに楽だろうか。

 

 ゴムの伸縮が違う、ブリジストンのタイヤは品質もいいが高価だ、他社のタイヤは水を含ませてるからどうたら.....お兄さんはタイヤを買ってほしい目で私のことを見てくる(ようにみえる)。ドラクエのモンスターのようだ。本当に買い替えが必要なのかは置いておいて、右耳から左耳へ、聞いているようで聞いていない私が遠藤憲一のような強面だったらきっと「検討します」の一言でセールストークを止めれたのかもしれないと、真っすぐな視線から逃れるように地面を凝視しながら考えていた。別にお兄さんと仲間にはなりたくはないので早く「いいえ」のコマンドを選択したい。

 

 私は断るのが苦手で、つい「あなたの話を聞いてます」という態度をとってしまうのがいけない。相手の会話を助長させてしまいそうな相槌だけは上手(と思っている)なのもいけない。そういう時、自分の時間を安売りしているなぁとは心の隅っこで思ってはいる。こういう時はだいたい「断れそうなタイミング」だけを探している。だが、そのタイミングはいつも掴めない。相手に無駄な説明をさせて散々喋らせた挙句、最終的にはぎこちない笑顔で「すみません検討します」の一点張りをしてしまう。断り方が分からない。店にとってよくない客であることは間違いない。

 

 大人になったら、会話やコミュニケーションに「よゆー」が生まれると勝手に思っていた。若い頃から見た余裕さを表すとひらがなで「よゆー」だ。だけど、人との会話は絶望的に進歩をしなかった。それは、いつも話をすることを避けて生きてきているからだ。なるべく人と話さないように動いている。対話が重要な仕事をしているのにも関わらず、必要最低限の会話で済むように、会話を意図的に終わらせてしまっている。タイヤ屋のお兄さんのように、自分から用があって喋ってくれたならご自慢の相槌をしてれば問題ない。けど、無口なおじさんにたくさん喋りかけたい人間はそうはいない。営業トーク、こういう時間のかかる人でもきちんと最後までやり切っててすごく偉いと思ったけれど、「検討します」と連発されていた時、お兄さんはどう思ったのかは考えたくはない。

 

 タイヤ交換が終わり、店を出るときにはどっと疲れてしまっていた。帰りに解放からかアイスを買って帰った。人生で切り抜けなければならない場面は、こんな些細なところにも転がっていると思うと出不精になってしまう。家では嫁と娘のからうける一方的な話をただ聞いていればいいので。そんなこんなで家に帰ってきてから、...にしてもスタッドレスタイヤの寿命短くねえかな、と呟いた。

 

2024年5月21日

 

 

カモシカを笑顔で追う

 平日は車で、ほぼ毎日100km移動してる。高速道路ではない街中を、だ。なぜこんなにも移動しているかの問いの答えは「そういう仕事をしているから」である。名古屋市の北区、中区、千種区瑞穂区名東区、天白区、守山区日進市長久手市瀬戸市春日井市ら辺を社用車でぐるぐる回りながら、いくつもの移ろいゆく街並みを車の中から眺めている。

 

 キレイな桜並木がどこにあるかを知っているし、路駐をして日陰で休憩ができるポイントも知っている。トイレがいつもピカピカで店員さんの愛想もいい良いコンビニもいくつか把握している。他にも、女子大生が路地から湯水のように湧いてくる横断歩道も知っているし、庭で大型犬とニワトリとチャボが放し飼いになっている妙な施設も知っている。営業しているかも怪しいただの民家に見えるカレー屋、出来町通の初見殺しバスレーン、点滴スタンドごと外に出て隠れて煙草を吸っている病院患者がたむろする路地裏など、取るに足らないような人や場所が、頭にすり込まれてく。

 

 特筆するまでもないけど、名古屋はタクシーの運転が酷い。彼らはとどまる事を知らない。急発進急ブレーキはもはや平常運転だ。毎日100km運転をしている自分がそう思うのだから間違いない。おそらく名古屋は多車線道路が多い為、車線変更に迫られる回数も必然的に多くなってしまい、強引に割り込んできたりする行動が目立ってしまうんだろう。だから普段からタクシーの近くには極力近づかないようにしている。でも不思議なことにタクシーが事故をしているところも見たことはない。皆が皆、タクシーに近づくと危険ということが分かっているからかもしれない。

 

 正直飽きてしまっている。荒い運転のタクシーが多い道路も、なかなか移り行かない変わらない住宅街も、見応えのない平凡な歩行者も。一度カモシカ名東区の住宅街に逃げ込んで警察が出動した現場も目撃したけれど、そんなおもしろい事件は滅多には起こらない。(名古屋の住宅街にカモシカ出現 警官ら20人で捕獲:朝日新聞デジタル (asahi.com))かれこれ5年ぐらいの仕事の大半は、ぼーっと運転をしているような感じだ。「運転は好きではない」これがこの仕事に就いてからの自分の結論で、これからもこの孤独なレースは仕事を辞めない限り続いていくのだ。

 

 それでも名古屋の北側を流れる庄内川を渡る時は、いつも水面の反射のきらきらを走行中に見ながら「仕事なんてどうでもいいからこの川をずっと眺めていたい」というセンチな気分になれる。上下左右に高低差をつけて並走する国道41号線と名古屋高速1号楠線の無骨な橋ごしに見える河川敷。駐車するスペースがないから、こんないい眺めなのに走行しながらでしか眺めることができないのがあまりにも勿体ない。「ああ。私にこの川を見るだけの時間をください」と、庄内川を渡るたびに考える。そんな時間は、ない。

 

 カモシカがこの庄内川の河川敷を走る不釣り合いな映像を脳内で考えだす。一生懸命にカモシカを河川敷で追いかける。警察も私も、近所の人たちもカモシカでさえみんな笑顔だ。自分が何者かを忘れて、ただ気持ちの良い風を体中に感じながら、追いかけっこを演じている。横目には宝石のように輝いてる水面。羽を休める水鳥たち。あの事件の時のカモシカは無事捕まったらしいが、この脳内のカモシカは笑顔の自分と一緒に永遠と河川敷を走り続けるだろう。そして、私には明日からまた同じような景色を薄ら見ながら、ぼーっと真顔で運転する毎日が待っている。

 

2024年5月19日