喧嘩できない夫婦

 出会って約12年、嫁と喧嘩を一度もしたことがない。声を荒げたり、合わない意見を無理矢理すり合わせることもしない。子供を授かってからも、どっちが何をする系のことで言い争いすらしていない。言うぐらいならさっさと行動してしまう方がよっぽど生産性がいいと考えている。互いが互いに強制したりせずに今日までやってきた。

 けれどこれが自分の信じている夫婦関係のあり方だ、とは声を大にしては言えない。なぜなら正直に言うと、私自身はただ単純に喧嘩することを恐れているだけだからだ。できれば喧嘩をしたくない。大きな声を出さないでほしい。がっかりしないでほしい。落ち込まないでほしい、とにかく平和的にいこうぜ。と、喧嘩からくる気分の落ち込みをなくすために必死になっている。一言でいうと「回避」。これが喧嘩をしたことがない、の真実だ。おそらく、嫁もそういった類の人間だと思っている。12年間果てしない「回避」合戦を繰り返し、積み上げてきた山のてっぺんで2人でバランスをとっている。その山は登ろうと思って登ってきたのではなく、いつの間にかそこに登っていたという感覚だ。喧嘩するほど仲が良いというが、我々はただの「喧嘩できない夫婦」だ。

 

 「喧嘩」によって生まれるものとはなんだろうか。こぶしを交わしたヤンキー同士に芽生える男の友情のような、理論的によくわからない感情が動くのだろうか。たしかに私も嫁もヤンキーでもなくて、こぶしを交わして互いの力を認め合ったりした経験は皆無だ。そもそも人を殴ったことすらない。こぶしで語り合う喧嘩で生まれる友情は理解ができそうもないので、端っこに寄せておいて「口喧嘩」について考えたい。

 

 自分の譲れない部分を主張して相手にきちんと理解してもらう。それに伴って起こる摩擦が口喧嘩だ。他人同士で生活をする以上、合わない部分が出てくるのは当然だ。たとえば「トイレの便座は普段から閉じたいタイプ」であったり、「洗濯機の蓋は開けておきたいタイプ」とか「ドアをちょっとだけ開けておかないと不安になるタイプ」だったり、人に合わせるのか自分が我慢するのかの選択を迫られる時があるだろう(たとえがなぜか開けるか閉めるかだけになった)。どちらかの理解度が低すぎてもいけない。要求がムズ過ぎてもいけない。無理矢理説得してもいけない。「俺はこういう人間だ!」とビッグダディのように伝えるのもいけない。口喧嘩の種はそこら中に埋まっていて、ちょっとしたことで顔を出す。私たち夫婦は、その埋まっている種を、相手に合わせまくることで回避してきた。

 

 夫婦はよく国交に例えられる。文化も価値観も違う国同士が、対等な力関係を築き上げるのはとてつもない労力が必要となる。交渉能力だったり、相手を尊重しながら自分たちの要求を通したりするのは緻密な計算と骨の折れる苦労がつきものだ。やり方を間違えると、もうそれは国交断絶、戦争になりかねなくなってしまう。それほど、夫婦における言い争いとは、デリケートな問題だと認識している。だからこそ、互いの腹を刺しかねない鋭利な言葉を日常会話で使うことはないし、相手の気持ちを先に考える。これほど他国の利益を優先している国は珍しいのかもしれない。

 

 女性は不満をためやすいと聞く。いつかそのたまった感情が爆発するよ、と他人に脅しのように言われる。そう聞くと自分のやってきた行動が信じられなくなってしまうし、時限爆弾が隣に置いてあるような状態を想像してしまう。そんなのは嫌だ。しかし、どうやら喧嘩慣れをしていない夫婦がいきなりド級の喧嘩をし、そのまま勢いで離婚してしまうパターンが多いらしい。喧嘩もなれていないのだから、仲直りの手段なんて持ってないのだろう。だからその解決方法は毒を解毒して免疫をつけるように、ほどほどの喧嘩をして、その都度仲直りをきちんとする。というのが良いらしい。

 喧嘩をこれだけしていない我々夫婦の離婚の危機があるのだとしたら、そういった爆発する系であることが想像できてしまう。どうにかして、その爆発も「回避」する為に、ちょっとずつでも小言でも言っていった方がいいのかもしれない。とりあえず参考としてビッグダディの名言集読んでから寝ます。

 

2024年6月6日