完全観察について

 人間観察は私が言うまでもなく楽しい。なぜなら単純に「観察」という行為自体が見境なく面白いからだ。ある焦点にフォーカスを当てる。すると、今までなんとなくでしか把握していなかった部分がくっきりと浮き上がってくる。認識から漏れていたものが、急に鮮明になる驚き。それを人間に対して行うのだ。コミュニケーションを一切無視して、喋ることもせず、感情を表に出すわけでもなく、答え合わせすることもなくただ「観察」するだけ。この行為を密かに楽しんでいる不届き者は多い筈だ。

 

 たまにその人と目が合ってしまう場合はすぐに視線を外し、ものの5秒も立たぬうちに再び観察を始める。大概は再び観察することができるようになるが、中には数回、目線が合ってしまうこともある。そういう時は恥ずかしい感情や申し訳ない気持ちにあえて蓋をして、「目が合ってくれて嬉しい」「これも一期一会だ」という都合のいい顔をしてしれっとその場から去ればいい。今までそれで対象人物に絡まれたり、警察に通報されるようなことは一度もない。

完全犯罪ならぬ完全観察だ。

 

 完全観察はその対象者が自分を認識していない時間に行われる。老若男女、髪型、髪の色(その手入れの頻度も予測する)から始まり、眉毛の太さ、アクセサリーの有無(素材感や数)、服のサイズ感、服の色味やトータルバランス、カバンや帽子の有無や持ち方、イヤフォンなど身につけている持ち物とその形状。立ち止まっている時はその立ち姿、歩いている時は歩幅やスピード、姿勢。目線はどこを向いているか、見ている場合はどの何をくらいの時間凝視するのか。

 

 もちろん複数人の場合も同様である。上記を踏まえた上で、どんな集まりか、どういう関係なのか、距離感はどのくらいか、良好な関係かどうか、その集団から浮いている人はいないかなど。見る箇所をあげたらキリがない。最終的にはその人のバックグラウンドや生活感をできるところまで、時間が許す限り紐解こうと試みる。よく「人はそんなに自分のことを見ていない」というが違う、私という人間にめちゃめちゃ見られているのである。

 

 間観察に没頭してしまう理由がうすぼんやりとある。「人と比べてしまう性格」だ。これに関してはまた別の記事でも書こうと思っているが、おそらく、自分が基準からはみ出ていないか、バランスが取れているかを把握するためにしているのだと思う。他人と自分の間にある差に対して感情が動く。自分と向き合う恐ろしさから、他人をこの世界の基準に置いている。そして自分がその基準から逸脱してしまわないか心配で心配でたまらなくなる。だから観察がやめられない。このループの渦中にずっといる。実情はそんなところだろう。そこには無意識に差別も含まれてしまっているかもしれない。「外見だけで人を推し量ろう」という無粋な気持ちを隠しながら、人間観察面白っ!とか言ってるのである。

 

 最後に余談だけどこんな弊害もある。

 「あれ...あの人どっかで会ったことあるな...」の多発だ。見たことある人が街中で大発生するのだ。私は愛知県外に住んだことがなく、おじさんになるまでずっと愛知県をうろうろしているので、数十年に及んですごい数の愛知県民をこの目で見ている。その人を観察した記憶が本当に呼び起こされているのか、似た人のパーツを組み合わせた顔をモンタージュ写真のように浮かび上がらせているだけなのか、それとも、全く見たこともない初対面の人なのかは、ぜんっぜんわからない。過去に観察してきた人間の特徴データは、ずっと霞んで見えてるゴミデータだ。思い出すのに何の役にも立たない。本当に何の役にも立たな過ぎて面白い。まじでぜんっぜんわからない。不完全観察だ。

 

「あれ...あの人...?」を嫁に言い過ぎて「もうそれ絶対に見ていないよ」と即答されるので、もういちいち言わないことにしている。

 

 

2024年5月23日